菊坂きくざか

本郷三丁目の交差点近くから、言問通りまで、600mほどの緩やかな坂道が伸びています。
喧騒の本郷通りからちょっと入るとそこは、繁華街でもなく、かと言って住宅街でもありません。商店と住宅がちょうどよく混ざり合った通りは、歩いているとなんとも気持ちのよくなる不思議に懐かしい雰囲気です。坂の傾斜もゆるやかで、場所によっては自転車にでも乗らなければ、坂ということがわからないかもしれません。
地名は、昔この辺りが菊畑だったことに由来します。今も菊坂を歩くと、家々の軒下には露地植えや鉢に収まった季節の花々や緑がたくさん見られ、心地よい下町の風情が楽しめます。
本郷界隈は文学の薫る町ですが、中でもこの菊坂は、明治大正期にとりわけたくさんの文士たちが集った場所です。

江戸時代末期(1859)の地図です。見ると、まだ道が完全につながっていませんが、菊坂の形がほぼ出来ています。本妙寺の文字も見えます。
(「文京の歴史風景」文京ふるさと資料館発行より)

派生する坂、上下の道

菊坂は本郷の台地の中でも一段低くなっていますから、菊坂の両側にはいくつもの小さな坂が菊坂に向かって下っています。それらの小さな坂にも名前と由来があります。

・炭団(たどん)坂

真砂図書館の近くから菊坂に下る急坂で現在は階段になっています。炭団職人が住んでいたとも、急坂なので転ぶと炭団のようになるとも言われています(団子坂と同じですね)。この坂の上には「小説神髄」や「当世書生気質」で知られる坪内逍遥の旧居跡があり、下ったところには宮沢賢治の下宿跡があります。

・本妙寺坂

炭団坂より本郷通り寄り、女性センターのあたりから菊坂に下ってきます。江戸時代にはこの坂の菊坂をはさんで反対側に本妙寺というお寺がありました。このお寺は、江戸の大半を灰にした明暦の大火(振袖火事)の火元として知られています。

その他にも、鐙坂、梨の木坂、胸突坂などたくさんの小さな坂が菊坂に合流しています。

胸突坂

軒先に緑のこぼれる菊坂

・菊坂下道

本妙寺坂のあたりから菊坂の南側、少し低まったところに菊坂と平行して走る、狭い道があります。これを菊坂下道(したみち)と呼び、樋口一葉の旧居跡や菊水湯があるのはこの下道沿いです。下道に対して菊坂本体は菊坂上道(うえみち)とも呼ばれています。

菊坂下道は下町の路地そのもの。上道と下道は、ところどころ階段でつながっています。


菊坂文人模様

・樋口一葉

彼女は24年の短い人生の間に本郷界隈に3回住んでいます。幼少の頃は東大赤門の向かい側のあたり、「にごりえ」「たけくらべ」など代表作を執筆したのは、その短い生涯を終えた白山通り沿いの家。ここ菊坂下道の路地に住んだのは、19歳から22歳までの4年間でした。17歳の時に役人だった父が亡くなり、残された借金を引き継いだ一葉は生活苦から、近くの伊勢屋質店に通い通しだったそうです。この質屋さんはもう営業していませんが、建物が残っています。菊坂に住んだ頃小説家を志しましたが、まったく売れず苦しい生活が続きました。写真の井戸は一葉が使ったまま、今も残されていて、水も汲めます。右は生活苦から幾度となく通った伊勢屋質店。営業はしていませんが蔵が当時のままに保存されています。

・宮沢賢治

1921年、25歳の賢治は信仰のことで父と衝突、家を出て上京しました。炭団坂下に下宿し、国柱会(法華経の団体)のボランティアをしながら、童話を執筆しました。改稿の多いことで知られる賢治ですが、多くの童話の第一稿がこの下宿中に書かれたと言われています。赤門前の文新社でガリ版の筆耕をし、ベジタリアンの賢治は芋と豆腐で食い繋ぎながら、多い時にはなんと一日300枚の原稿を書きました。しかし、上京7ヶ月目にして彼は花巻に帰らなければならなくなりました。「永訣の朝」に「けふのうちにとほくへいってしまふわたくしのいもうとよ」と詠われた妹トシさんの病状が悪化したからです。花巻には、書きためた原稿用紙を大きなトランクにぎゅうぎゅう詰めにして帰ったといいます。

・石川啄木

1909年、北海道を転々としていた啄木は、家族を函館に残して、単身上京します。22歳の啄木は盛岡中学の先輩である金田一京助を頼り、現在のオルガノ株式会社の敷地の中にあった赤心館に下宿します。しかし小説は売れず、家賃を滞納して5ヵ月後に京助とともに近くの蓋平館(がいへいかん)別荘に移ります。引越し費用と啄木の家賃肩代わりのため、京助はたくさんの蔵書を売り払いました。「たはむれに母を背負ひて そのあまり輕きに泣きて 三歩あゆまず」などの短歌がこの頃書かれます。2年後、友人の世話で朝日新聞社に職を得て、なお困窮が続く中、家族を呼び寄せ、27歳で急逝するまで住んだのが、春日通り沿いの理髪店喜之床の二階でした。ここは現在アライ理髪店となっていますが、喜之床の建物は愛知県犬山市の明治村に復元されています。

戦災で焼けた蓋平館別館の後に建った太栄館。玄関先に「啄木ゆかりの地」の碑が立っています。

アライ理髪店

赤心館の隣には文人たちが集った菊富士ホテルがあり、オルガノの敷地内に碑がたっています。石碑には文人たちの名前が刻まれていますが、錚々たる面子です。

石川淳、宇野浩二、宇野千代、尾崎士郎、坂口安吾、高田保、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、正宗白鳥、真山青果、竹久夢二、三木清、中条(宮本)百合子、湯浅芳子、大杉栄、福本和夫、伊藤野枝、三宅周太郎、兼常清佐、菅谷北斗星、下村海南、青木一男、小原直、月形龍之介、片岡我童、石井漠、伊藤大輔、溝口健二、高柳健次郎

その他にも、菊坂界隈には、梶井基二郎、二葉亭四迷、徳田秋声、石川啄木、金田一京助、谷崎潤一郎、高山樗牛、島崎藤村、尾崎紅葉、上林暁などが住み、あるいは下宿しています。

昭和になっても木下順次、田宮虎彦らの名前が見えます。

菊富士ホテル跡の碑


散歩でおなかがすいたら…

・明月堂パン屋

文京区本郷4-37-14 菊坂の入り口、本郷通りにある明治25年創業のパン屋さん。昔と同じ製法のアンパン、ジャムパンが人気ですが、一押しはなんといっても甘食。

・近江屋洋菓子店

文京区本郷4-1-7 菊坂とは本郷通りをはさんで反対側にある天井の高い喫茶店。ケーキとアイスクリームで60種以上もあります。神田淡路町の本店は明治17年創業。

・石井いり豆店

東京都文京区西片1-2-7 菊坂を下りきって言問通りに入るとすぐ右側。明治20年に出来たこのお店は落花生、煎り豆の専門店です。

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