無縁坂むえんざか

本郷の東京大学には正門、赤門、龍岡門など歴史的な多くの門があります。医学部裏手にある鉄門もその1つ。明治9年に、東大正門としてつくられながら、大正時代には撤去され、2006年、医学部150周年記念に再建されるという歴史を辿りました。
この鉄門から、上野不忍池に向かって下るひっそりとした坂道が、無縁坂です。
この坂道は東西に200メートルほど、北側はマンションがあり、さらに北側に講安寺、東大医学部が広がっています。南側には旧岩崎邸の石垣が続きます。

明治の文豪、森鴎外の小説『』は、この界隈を舞台にしていて、主人公の岡田青年は、無縁坂を散歩道としてよく歩いていたようです。

岡田の日々の散歩は大抵道筋が決まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。

藍染川という川は、今は見ることができません。不忍通りの東側に並行して流れていた小さな川で、岸には染め物屋が多く、蜆やホタルの名所だったというから、水はきれいだったのでしょう。現在、川は区境の道路となっていますが、一部に「ヘビ道(台東区谷中)」と呼ばれるうねうねとした部分が、以前が川だったことを物語っています。

江戸時代の地図にもその名が見える無縁坂、その名前は、坂の上に無縁寺があったことに由来しています。現在、坂の北側には講安寺がありますが、ここにも無縁寺という庵があったようです。講安寺は、漆喰造りの大変個性的なお寺。火事の多かった江戸の町で、建立以来300年たって現存しているのは、この防火建築ゆえです。

講安寺

もうひとつ、この坂を有名にしたのは、さだまさしさんの名曲『無縁坂』でした。年若い「母」が、幼い「ぼく」の手を引いて、この無縁坂を上るたびに、いつもため息をついていたことを思い出す。というフレーズから始まるこの歌は、不遇だった自分の母親のことを大人になってから想い起すという物語の歌ですが、坂の名前の物悲しさとあいまって、聞く人に強い印象を残します。

この「母」と「ぼく」の2人はなぜこの坂を登ったのでしょう。東大病院に治療に通ったのか、それとも、入院している誰かを見舞いに来たのでしょうか。坂の下は不忍池、その先にある上野の山を越えると、上野駅があります。上野駅から東大病院まで、歩いて最短のコースをとると無縁坂を通ります。東大病院に来る人は、上野か御茶ノ水からバスに乗ってきます。でも、バスに乗らずに歩いてくるならば、「この坂を登る」のです。

長崎出身のさださんは、葛飾区や千葉県市川市に住んでいたことがあるそうです。上野駅も、この坂も歩いたかもしれませんが、それは小学校卒業後とのこと。母に手を引かれるにはちょっとそぐわないので、やはりこの歌は彼の創作なのでしょう。

文京区の設置したボード

坂を下りきって不忍通りを渡ると、そこは上野不忍池、都会のオアシスです。冬は渡り鳥の季節、マガモ、カルガモなどたくさんの野鳥が訪れる不忍池ですが、ここで一番多く見られた鳥はユリカモメでした。直線距離にして6キロメートル、東京湾から不忍池まで飛んできたのでしょうか。心を和ませてくれる彼らがいつでも羽を休めるよう、大切な水辺をいつまでも残してゆきたいものです。

不忍池のユリカモメ

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