大給坂
千駄木周辺で有名な坂といえば団子坂と動坂ですが、ちょうどその中間辺りに、地味ながらも人を引きつける坂道があります。その名は「大給坂」、不忍通りから保健所通りまで続く400mほどの細く急な坂道です。不忍通りに面する坂道の始まり付近を除けば、商店や飲食店などは一軒もありません。勾配が急になる手前の坂下には、文字通り「坂下観音」がひっそりと祭られています。
大給坂の名は、かつてこの坂上に子爵・大給家の屋敷があったことから名付けられました。大給氏は、戦国時代に三河国(愛知県)加茂郡大給を本拠とした豪族で、徳川氏の母体となった松平氏の庶流です。
大給松平氏は早くから徳川家康に仕えていたことから信任が篤かったようで、江戸時代に入ってからも本家、一族で大名や高級旗本になった者も多く、歴代の老中を5人も輩出しています。明治時代になって版籍奉還が行われた際には、大給松平家は幕末まで続いた譜代大名として子爵に列せられるほどでした。
現在、大給坂に立てられている文京区教育委員会の案内板を読むと、大給家が江戸時代からこの地に住んでいたかのように感じてしまいますが、大給家がここに屋敷を構えたのは実は明治になってからのことだといいます。
また、案内板に書いてあるように、明和元年(1764年)に大給松平家宗家6代目の松平乗祐は三河西尾に移封され、現在“三河の小京都”と呼ばれる西尾の城下町を発展させていきました。
現在、大給坂の途中にある小さな公園には大きなイチョウの木がありますが、それは昔の大給屋敷内にあったものです。
この大イチョウに関して、いくつかの逸話が残っています。昭和の時代に入り、大給邸が三木証券の創業者・鈴木三樹之助に譲られることになりました。その際、大給家は「何があってもイチョウの木だけは残して欲しい」と伝えた……という話が残っています。
そして、終戦直後の昭和20年(1945年)9月下旬のこと。第二次東京大空襲で自宅が全焼してしまった三樹之助の娘・志げ子一家がこの屋敷に転がり込んできました。この志げ子の夫が、当時大蔵省主計局に勤務し、後に第68・69代内閣総理大臣となる大平正芳だったのです。
昭和35年(1960年)に鈴木三樹之助が75歳で死去すると、すでに政治家に転身していた大平正芳がこの大給邸の主となりました。
そして昭和41年(1966年)、大平家は世田谷区へ転居することになりました。その際、大平はイチョウの木の立つ場所を文京区に寄付したため、大給邸の跡地の一部は現在の「千駄木第二児童遊園」として残り、公園の片隅にはイチョウの木も残ることになったのです。このため、この公園の別名は“大平公園”といい、大イチョウは“大平イチョウ”と呼ばれるようになったといいます。
大給坂付近の高台は「千駄木山」といい、この周辺には明治時代から多くの文人が住むようになります。近くに住んでいた夏目漱石は、次のように詠んでいます。
初冬や 竹きる山の なたの音
漱石
また、大給坂を上りきったところにあるのが、長編小説『伸子』などで知られるプロレタリア作家・宮本百合子の実家(中条家)跡。そこの石塀には「宮本百合子ゆかりの地」と書かれたプレートがはめ込まれています。
保健所通りを北へ数分歩くと、彫刻家であり、詩人としても活躍した高村光太郎の旧居跡もあります。ただし、『道程』『智恵子抄』といった名作を生んだ光太郎自身の設計によるアトリエは、昭和20年の空襲で全焼してしまいました。案内板はあるものの、当時の面影を偲ばせるものは、残念ながら一切ありません。
また、この通りには旧・安田楠雄邸があります。もともとは豊島園の開園者・藤田好三郎の邸宅でしたが、安田財閥の創始者・安田善次郎の娘婿・善四郎が関東大震災直後に購入し、昭和12年に長男・楠雄が相続したものです。その当時、この通りには数々の銀行頭取が居宅を構えたことから、「銀行通り」と呼ばれていたといいます。
建物は、伝統的な和風建築の書院造や数寄屋造を継承しながらも、内部に洋風の応接間を設けるなど、和洋折衷のスタイルも取り入れた造りになっています。現在は安田家から日本ナショナルトラストに寄贈され、歴史的建造物として修復・管理されていて、見学することもできます。
前述の通り、この坂道には商店や飲食店が1軒もありません。言い方を換えると、昔ながらのごちゃごちゃした千駄木の住宅街を通り抜けている坂道なのです。
朝には仕事に向かう人々が寡黙に坂道を下り、昼にはみんなでじゃれながら家へと向かう小学生の笑い声が響きます。夕方には買い物を終えた奥様たちが急勾配にあらがいきれずに自転車を降りて押し――最近では電動自転車でスイスイと上っていく姿も目立ってきましたが――、そして夜には控えめな街灯によって等間隔に照らし出された坂道を、家路を急ぐ人々が上っていきます。
大給坂は、朝には朝の、昼には昼の、そして夜には夜の表情を持った、まさに“生きている坂道”、生活の匂いを感じさせる坂といえるでしょう。下町情緒のある、どこか昭和の香りのする懐かしい風景に、惹かれる人が多いのかもしれません。
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