昌平坂しょうへいざか

昌平坂は、その坂自体よりも、昌平坂学問所の名前で広く知られています。学問文化の興隆をめざした徳川綱吉は、1690年、儒学振興のために湯島聖堂を建てて儒学者林羅山の家塾をここに移転しました。それから一世紀後の1797年、この地に幕府直轄の昌平坂学問所が開かれたのです。昌平坂の名は、儒学の祖である孔子の生地、中国魯の国昌平郷にちなんだものでした。今も湯島聖堂には大きな孔子像がたたずんでいます。

湯島聖堂をつくった幕府は、この近くの複数の坂を「昌平坂」と定めたようです。「『湯原日記』に元禄三年*十二月十六日、聖堂の下前後の坂を今より昌平坂と唱ふべきよし定らると見ゆ、是魯國昌平郷になぞらへてかく名付玉ひしなり、元禄四年の聖堂図には堂の東に添て坂あり、其所に昌平坂としるせり」(御府内備考 巻之二十九 湯島之一)
*元禄3年は1690年。

現在、古跡昌平坂の石碑が立つのは、聖堂の東の南北の坂です。また、聖堂南の神田川に沿った坂も昌平坂と呼ばれています。文京区教育委員会の表示板では、神田川沿いの坂を「相生坂(昌平坂)」という表記を採って区別しています。ここには「神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という」と書かれていますが、相生坂というのは固有名詞ではなく、2つの坂がセットで並んでいることを表す呼び方です。都内に相生坂はほかに多数存在します。また、2つの昌平坂は、ともに千代田区と文京区の区境となっています。

江戸時代にタイムスリップした脳外科医を描いて大人気となったマンガ作品の『JIN-仁-』でも、昌平坂が出てきます。主人公の南方仁が、夜に昌平坂を通りかかって辻斬りにおそわれるシーンです。坂を登ってくる仁の右側に神田川、左側に湯島聖堂の塀が描かれ、江戸の夜の暗さが窺い知れる場面です。

村上もとか『JIN-仁-』(集英社)第1巻より

歌川広重も『江戸名勝図会』の錦絵「昌平橋」で、湯島の聖堂の塀を描いています。昌平坂を下りきったところで神田川にかかる昌平橋は、現在も外堀通りの橋として存在します。しかし、今は両側を総武線と中央線のガードに挟まれ、地下鉄丸ノ内線の鉄橋や、江戸時代にはなかった御茶ノ水の聖橋などに囲まれて、江戸時代ほどには目立たない橋になりました。広重は『名所江戸百景』でも昌平橋を描いています。こちらは「昌平橋聖堂神田川」と題して、昌平橋から湯島聖堂を見上げる構図です。


川柳二句

「三度目に昌平坂の下へ越し」

我が子の教育のために三度引っ越しをしたと伝えられる孟子の母の故事「孟母三遷」にかけた句です。

「昌平は唐名和名は芋洗い」

昌平の地名は、幕府が定めて名付けたものと先述しました。ところで、昌平橋は元の名は芋洗橋だったそうです。これが昌平橋に改められたことを面白く詠んだものです。

坂にある名店

御茶ノ水 小川軒

老舗の洋食レストランですが、レイズンウイッチが名物として有名です。
レーズンを生クリームでくるみ、2枚のサブレでサンドした一品。
全国に似たお菓子はありますが、代官山、新橋、鎌倉などにもある小川軒が最初に作ったとして知られています。

住  所
文京区湯島1-9-3
電  話
03-5802-5420

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