富坂
文京区役所のビルの足元、春日通りが西へ向かってゆっくり上っていく坂が富坂です。春日の交差点から東の本郷へと上る坂は真砂坂ですが、古くは真砂坂は東富坂、現在の富坂は西富坂と呼ばれ、向かい合って2つセットの坂だったようです。
富坂の名前の由来
江戸時代にはこの周辺に鳶(とび)が多く「女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故鳶坂と云」と江戸時代の仮名草子『紫一本』に書かれています。この鳶坂(とびさか)が、あとになって富坂(とみさか)に転じたようです。江戸の地誌を綴った『御府内備考』には「年代不知富坂と書改候由申傳候」(年代はわからないが富坂と書き改めたと伝えられている)と記録されています。
また、『御府内備考』には、「西富坂 幅六間三尺、長壹丁半程」と書かれていますから、江戸時代の富坂の幅は11.3m、長さは160mだったようです。現在の富坂は上り切るまで約300m近くありますので、昔はかなりの急坂だったのが、現在のゆるやかな勾配に改修されたわけです。
江戸時代、富坂の北側は、坂にそって小石川上富坂町、小石川中富坂町、小石川下富坂町がありました。これらの町名は、1940年(昭和15年)に富坂一丁目・富坂二丁目に改められました。現在では小石川の1丁目と2丁目となって、富坂の名は住所からはなくなり、富坂警察署の名前にのみ残っています。
春日局からついた地名
富坂の南側は春日1丁目と2丁目です。都営地下鉄の駅名にもある「春日」は、この地に屋敷のあった春日局にちなんだものです。彼女は、明智光秀の重臣、斎藤利三の娘でしたが、のちに徳川家光の乳母となりました。将軍を育て上げた功績を活かし、政治的な手腕を発揮して、幕府で絶大な権力を握ったとされています。春日局の屋敷は、1630年(寛永7年)に、現在の白山通り東側の幕府から与えられた土地に設けられました。そのお屋敷の鎮守のために建立された神社が今も残っています。逆臣の家から出て、将軍の乳母となり大奥の最高権力者となった春日局にちなんで、出世稲荷神社と名付けられています。
富坂を上がっていく左側、礫川公園の入り口に春日局の銅像があります。1989年(昭和64年/平成元年)のNHK大河ドラマで『春日局』が放映されたことを機に、文京区がまちおこしの一環として建立したものです。
富坂に住んだ島木赤彦と菊池寛
正岡子規の短歌論を継承したアララギ派の歌人、島木赤彦は30代半ばまで長野で教員をしながら歌作に励んでいました。1914年(大正3年)、37歳の時、アララギの中心的な歌人だった伊藤左千夫が死に、赤彦は機関誌『アララギ』編集のため単身上京、上富坂いろは館に下宿しています。富坂中程の北側、路地を入った礫川小学校の裏に、いろは館跡の碑が残されています。
富坂の冬木の上の星月夜
いたくふけたりわれのかへりは ― 島木赤彦
文藝春秋の創設者としても知られる作家の菊池寛も、富坂の住人でした。1918年(大正7年)から4年ほど住んだのが、小石川中富坂十七番地、現在の住所では文京区小石川2-4ですから、春日局の銅像の春日通り向かい側の辺りになります。東大在学中の川端康成がこの家を訪ねてこう書いています。
「中富坂の家へ初めて伺った時、私はまだ二十二歳の学生であった。その家は富坂の中程から北へ折れた路にそって、二階が確か六畳と四畳半、下も二間で庭の狭い粗末な借家建…」(「菊池寛氏の家と文芸春秋社の十年」より)
夏目漱石『こころ』と富坂
1914年に発表された夏目漱石の『こころ』には、当時の富坂について何カ所かの描写があります。明治の頃の富坂の様子がわかりますので見てみましょう。
「ある日私はまあ宅だけでも探してみようかというそぞろ心から、散歩がてらに本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に伝通院の方へ上がりました。電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えていたものです。」
はっきりと富坂の名は書かれていませんが、左手が砲兵工廠(ほうへいこうしょう)と書かれているので、富坂を上がったものとわかります。砲兵工廠というのは、当時の陸軍の軍事工場で、その跡地は現在、礫川公園や後楽園遊園地、東京ドームになっています。1883年(明治16年)の地図には、「西富坂」「砲兵工廠」の文字が見られます。また、富坂には1908年(明治41年)に都電が開通していますが、それが周辺の風景を変えたと漱石は感じています。都民の足として活躍した都電は、1970年(昭和45年)前後に相次いで廃止となり、現在では荒川線1路線のみが残っています。
「雨はやっと歇(あが)ったようですが、空はまだ冷たい鉛のように重く見えたので、私は用心のため、蛇の目を肩に担いで、砲兵工廠の裏手の土塀について東へ坂を下りました。その時分はまだ道路の改正ができない頃なので、坂の勾配が今よりもずっと急でした。道幅も狭くて、ああ真直ではなかったのです。その上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がっているのと、放水がよくないのとで、往来はどろどろでした。」
ここでも坂の名はありませんが、砲兵工廠の壁沿いに東へ坂を下りたことから富坂を通ったのがわかります。富坂は何度かの改修で、道幅も広がり、勾配も緩やかになったわけですが、漱石の頃にはまだ急坂だったようです。また、春日の交差点付近は谷底で、水はけも悪かったことがわかります。
小説では、この直後にばったり下宿のお嬢さんと出会います。主人公は、このお嬢さんとの結婚を申し込みますが、それが親友のKの大事を招いてしまう結果となります。
今はたくさんの車が通り、人が行き交う富坂です。ゆっくり坂を歩いて、この地の歴史や文豪たちの在りし日に思いを馳せてはいかがでしょうか。
『こころ』(青空文庫)
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