善光寺坂
善光寺坂は文京区小石川2丁目と3丁目のちょうど境目にあたります。地下鉄春日駅・後楽園駅の側、富坂下交差点から北に向かってしばらく歩き、路地を西に曲がった先の坂道です。
善光寺月山堂
路地に入ってすぐに緩やかな坂道が始まり、名前の由来となった善光寺月山堂の朱塗りの山門が目に入ります。このまっすぐ山門へと続く道は明治になってから新しくできたもので、善光寺の敷地にそって回り込むように迂回した坂道が古くからある道筋です。かつてはこのあたりが坂上にある傳通院の裏門にあたっていました。江戸時代には、傳通院(伝通院)の範囲は現在よりもずっと広く、この善光寺や、次に取り上げる慈眼院澤蔵司稲荷(じげんいんたくぞうすいなり)は、傳通院の塔頭(子院)という立場でした。
善光寺は慶長7年(1602年)に創建され、元々は縁受院という名前だったそう。明治17年(1884年)に信州善光寺の分院となり、現在の名になったといいますから、「善光寺坂」という名前は比較的新しいものだということになります。昭和20年(1945年)5月の空襲にも影響を受けなかったという山門の風格ある姿は、時代を飛び越えたような気持ちにさせてくれます。
慈眼院澤蔵司稲荷と大椋
そのまま坂を上ると、右側に慈眼院澤蔵司稲荷の急な石段が現れます。鉄の手すりを頼りに段を登り切った正面には鳥居とお堂があり、鳥居の左側には大正7年(1918年)に建てられた松尾芭蕉の句碑があります。
一しぐれ礫や降りて小石川
松尾芭蕉
お堂の右手からはさらに奥へと境内が広がっていて、「霊窟(おあな)」と呼ばれる窪地に続いています。木立に覆われた空間に稲荷が祭られており、鳥居が立ち並ぶ様子には何とも言いがたい不思議な迫力があります。
傳通院の学寮に学び、たった3年で浄土宗を極めた澤蔵司という学僧が、実は千代田城の稲荷大明神であったという伝説が澤蔵司稲荷の起源。この伝説は元和6年(1620年)の出来事とされています。澤蔵司がよく通ったという蕎麦屋「稲荷蕎麦 萬盛」は、現在でも傳通院の近くで営業を続けています。また、坂道を少し進んだところには樹齢300年にもなるという椋の大木がそびえおり、この木には澤蔵司稲荷の魂が宿っているといわれています。
幸田露伴とその娘・孫娘が暮らした地
この椋の大木の横は、幸田露伴が住んだ「小石川蝸牛邸」があった場所です。向島から引っ越してきた露伴に、借家を紹介したのは樋口一葉の妹、邦子であったとか。樋口一葉もこの坂をよく歩いていたようです。幸田露伴が疎開した後、「小石川蝸牛邸」は空襲で焼失しましたが、露伴の娘である幸田文が同じ場所に家を建て、さらに娘の青木玉と暮らしました。こういった生活の様子は、青木玉による『小石川の家』『上り坂下り坂』などに見ることができます。
そのまま道はゆるやかに下って、道の真ん中に椋の古木が生えている。この木の前の角の家に、昭和二年から祖父は住むようになった。…
(青木玉『上り坂下り坂』「小石川ひと昔」より引用)
傳通院(伝通院)
坂を上り切ったところに見えてくるのが、徳川家康の生母・於大の方の菩提寺である傳通院。正式名称は無量山傳通院寿経寺といいます。起源は応永22年(1415年)にさかのぼり、その頃は無量山寿経寺という名前でした。所在地も今とは異なり、現在の宗慶寺の境内の中だったそう。傳通院殿というのが於大の方の法号ですが、これにちなんで寿経寺も傳通院と呼ばれるようになりました。
堂々と立派な山門と本堂は、昭和63年(1988年)に再建されたもの。墓地には於大の方や千姫など徳川家の人々をはじめ、様々な有名人が眠っています。
坂にある名店
稲荷蕎麦 萬盛(まんせい)総本店
澤蔵司が通った蕎麦屋として澤蔵司稲荷の伝説に登場する「稲荷蕎麦 萬盛」が、現在も傳通院前交差点の付近で営業しています。開創以来、現在に至るまで、その日最初に茹でた蕎麦を澤蔵司稲荷に奉納し続けているそうです。
- 住 所
- 文京区春日2-24-15
- 電 話
- 03-3811-2763
御菓子司 千代田
日本人なら誰もが知っていて、和菓子のスタンダードとも言うべき大福餅ですが、実はその発祥は小石川です。明和8年(1771年)に小石川箪笥町に暮らしていた「おたよ」という女性が作ったのが始まりで、当時は砂糖が高級品だったこともあり最初はお餅に塩味の餡を入れていたそうです。次第に庶民的な甘味である黒糖入りの餡を包むようになり、名前も腹太餅から大福餅へと変えて、評判となりました。
坂下にある「御菓子司 千代田」では、この大福餅を復刻。「おたよさんの大福」として販売中です。
- 住 所
- 文京区小石川2-25-12
- 電 話
- 03-3811-6140
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